関西の食文化 — InterTinconental TOKYO BAY

関東の食文化を貶す関西人は、依然として多く存在します。出張で訪れた東京の、駅前の立ち食いそば屋で食べたそばの汁が真っ黒で甘くて濃くてまずかったと、その事例だけをもって関東の食文化全体を総合的に評価します。人間というものは何かの要因で蔑まれた事柄に対して、直接関係のない事柄に拒絶的な反応をしたり、妬みの意識をもってしまいがちです。ちなみに東京の立ち食いそばごときで関東の食文化をけなすような関西人は、残念ながら仕事も見た目もパッとしない人が多いという現実がありますが、この記事のテーマと直接結びつかないのでここでは控えることにします。 東京で生まれ育ったものの、過去に5年間の大阪生活をし、その後も月に3~4回仕事で関西に訪れていた僕は、関西の食文化を「分かった風」なツラをして評価したりしません。また、僕が知る多くの関東人は、関西の食文化を「分かった風」なツラをして評価をしません。なぜなら、日本全国どの都市でも、駅前にある立ち食いそば屋の味のクオリティがどの程度の期待値であるのかを理解しているからです。駅前飲食店を何軒かサンプリングした程度で、その土地の食文化を総合評価したりしないのです。 ところで、現代の関西の食文化と嗜好を見ていると、彼らが他の地の食文化を貶すことができるほど首尾よく一貫されているとは思えません。むしろ、大きな矛盾や齟齬、そしてポリシーの「ブレ」があると感じています。総合評価や断定はしませんが、いくつか気づいたことを以下に記します。 そばの出汁が濃いことを「味覚の暴力」のごとく非難するくせに、自分たちはお好み焼きにドロドロのソースとマヨネーズを山ほどぶっかけて食べたり、餃子や寿司に醤油をビショビショにつけて食べます。たとえば、京都の精進料理と天下一品の因果関係を、あなたは説明できますか? たかだか5〜6個の焼き餃子を食べるのに、小皿から溢れ出んばかりの酢と醤油をなみなみと注ぎ、焼き餃子の天地両サイドがジャブジャブに浸かるまで小皿の中を泳がせる。それでもたかが5〜6個の餃子ですから、当然使い切らずに大量の酢醤油を小皿に残して出ていく。寿司屋の醤油もしかりです。なぜあんなにいちどに小皿なみなみまで注ぐのでしょうか?少量を注ぎ、足りなければ後から足せばいいのに。ほんと、もったいない。 唐辛子が辛いことと、塩分が多くて塩っぱいこととを区別する語彙がない。両方とも「からい」という。これでどうやって調味するのでしょう。料理を味わった人は、どういう言葉で味を評価すればよいのでしょうか?

経由: 関西の食文化 — InterTinconental TOKYO BAY

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